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毎年12月14日、赤穂浪士四十七士が見事討ち入りを果たした日です。つくづく自分は日本人であることを痛感します。その物語の中に踊る『忠』とか『義』とか『仁』の文字を見ると、なぜか心が湧き立ち、背筋が伸びる思いがします。300年の時を経てもなお現代の私達の心を打つのは、ただの『敵討ち』の話ではないからでしょう。
元禄14年3月14日、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、武士としての屈辱を晴らすべく、江戸城中「松の廊下」で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に対し刃傷(にんじょう)に及びます。当日は朝廷からの客人があり、江戸城はその準備のために大騒ぎの真っ最中でした。その時、内匠頭は吉良の指導の下、朝廷の接待役を勤めておりました。事あるごとに、吉良から無理難題やいやみを言われ続け、思い余っての刃傷でした。青天の霹靂の出来事に動転した将軍綱吉は、朝廷の手前何とか事を収めようと、ろくに調べもせずに怒りに任せ断を下します。朝廷にこんな醜態を見せてはいけない、と闇から闇へと事態を葬ろうとします。その結果、評定はあまりにも無情なものでした。即日切腹・・・。 『喧嘩両成敗だろう?武士であり、ましてや一国の城主である浅野に、詮議も不十分なまま即日切腹。しかも庭先での切腹など、武士としてあるまじき処遇ではないか!』と、それに断固反対した勇気ある武士もいたのです。事件の取調べをした多門伝八郎(おかどでんぱちろう)です。彼は、吉良が内匠頭を冷遇していたことを知っていたのです。最後まで『あなたにも言い分がおありでしょう?言い残すことはありませんか?』と問いかけたそうです。また、江戸城から切腹に出される内匠頭が通る廊下の庭先に、浅野家の家臣、片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん)をこっそり待たせます。最期に一目、主君に会わせるという粋な計らいでした。当時、切腹を控えた罪人は、誰とも面会したり言葉を交わしたりできません。もし、それが見つかると、責任者は大変なことになってしまいます。「私は何も聞きません。見もしません。家臣に声をかけてあげなさい。」そう告げて多門は後ろを向きます。「かたじけない。」と頭を下げた内匠頭には、人の情けがさぞ身に沁みたことでしょう。私はここの件にいつも胸を打たれます。評定に異議を唱えたため、多門は罰として、切腹を見届けるという、いやな検死役を命じられます。しかし、翌日、彼は上役の不興を買う事も厭わず、切腹の扱いが粗略であったと尚も抗議します。我が保身より、正義の武士たらんとするその心に胸が熱くなります。私はこれこそが『武士の情け』だと思うのです。真の意味で強い男、サムライが持てる優しさなのでしょう。男として、いいえ人間としてこうありたいものです。 浅野内匠頭の妻、阿九里(あぐり)は、主人が自刃する同刻に,夫の菩提を弔うべく潔く髪をおとし仏門に入ります。内匠頭は『風誘う 花よりもなお我はまた 春の名残りをいかにとかせん』という辞世の句を詠んでいます。残して逝かなければならない若く美しい妻や、家臣達の事を最期まで心配していたのでしょう。若き城主が自ら命を絶たなければならなかった悲劇は、美しい桜吹雪があまりにも似合いすぎます。散り逝く花びらは、さながら彼の涙のように思えてなりません。きっとその美しい一片一片に、最期に彼の想いを託したのでしょう。その阿九里のもとを、敵討ち決行の直前、国家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は訪ねます。赤穂浪士の血判状を収支決算書と偽り、最後に主君の墓前に供えるためです。どこに潜んでいるかわからない敵の目を欺くため、彼は一芝居うちます。「これで家老としての仕事は終わりました。本日は暇乞いをしに参りました。」と告げる彼に「主君のあだ討ちはどうなったのか?」と、何も知らない彼女は詰め寄ります。今まで綿密な計画を練ってきた内蔵助は、心の中で詫びながら「仇討ちなど途方もないことは考えておりません」と嘘をつきます。それに怒った彼女は、「そんな腰抜けの家来を持ったとは口惜しい。顔も見たくない。もう二度と会うこともあるまい。」と冷たく内蔵助を帰らせてしまいます。今生の別れに線香を供えに来たのに、誤解されたまま去らなければならなかった彼の胸の内はどんなだったでしょう。喉まで出かかった言葉を飲み込み、「これにて失礼致します。」と万感の思いで去るのです。主君の仇討ちという大仕事を成し遂げるまでは・・・と決意した彼に、自分を非難されることなどどうでもよかったのです。彼に迷いはありませんでした。大きな志を持った者には不動心が宿るのでしょう。しかし、阿九里は偶然、仏前に供えられた決算書が血判状であることを知ります。やっと内蔵助の真意を知り「忠義の家臣に申し訳なかった。」と、雪の中を帰る後姿に涙ながらに手を合わせるのです。『南部坂雪の別れ』という有名な場面です。語らずとも、言葉以上に伝わるものはあるのです。 彼女は浅野家の主の妻として、四十七士の切腹にのため、武士として恥ずかしくない最期を迎えられるよう、心尽くしの死装束を用立てたそうです。そして、亡くなるまで赤穂浪士の遺族、遺児達のため、色々と尽力したとも聞きました。なかなかできる事ではありません。夫の死後、領地もなく、彼女も決して裕福な生活ではありませんでした。しかし、倹しい暮らしの中でも質素倹約を貫きます。我が主人に、忠義を尽くしてくれた家臣たちに報いるために、『私の事よりも家臣達が第一です。』と、精一杯の努力を惜しまなかったのです。それでも気品を失う事無く、心優しく城主の妻としての誇りを持ち続けたのです。夫の後をただついていくだけ、誰かを頼るだけの女性ではなかった、という事でしょう。おっとりと構えながらも、夫に何事かあれば、『安心してください。私が支えます。』と言えるだけの裁量があったのでしょう。彼女は今、泉岳寺の夫の隣で、安らかな眠りについています。散り際が見事だった夫内匠頭が桜なら、それを支える大地のようです。真に、彼に相応しい妻だと思います。あの時代、男であれ女であれ、誇り高く立派に生き抜いたのです。 内匠頭は、切腹に臨む前、源五右衛門にただ一言『無念!』と言い残します。多門の心遣いで伝えられた遺言は、歴史を動かすことになります。あまりに突然な主君の理不尽で不名誉な死。一方、吉良上野介はお咎め無し。これでは片手落ちだと思っているところに、『無念!』の遺言。家老内蔵助は、書画に親しむ文化人で、武士の世界にあっても争いを好まず、穏やか過ぎて『昼行灯』と揶揄されるほどだったそうです。しかし、眠れる獅子が目覚めたかのように、彼の心と体は動き始めます。混乱する家臣達を治め、数日のうちに赤穂城の無血明け渡しを鮮やかに成し遂げます。その潔さは、立つ鳥跡を濁さず、だったそうです。天下の将軍綱吉の評定に、敢然と抗議し、浅野家の名誉を回復させ『お家再興』という無謀とも思える目標の元、家臣の心を一つに結集させたのです。元禄時代といえば、華やかな文化が花開き、戦などあろうはずもない世の中でした。現代でいえばちょうどバブル。そんな浮かれた時代でありながら、彼ら赤穂浪士達は、武士(もののふ)の心を失わず、見事に事を成し遂げます。討ち入りを果たすまで、なんと1年9ヶ月。志半ば、一人欠け、二人欠け・・・しながらもお互いを支えあい、自分達の目標を見失うことなく『本懐』を遂げます。 彼らは討ち入りを果たした後は、生き永らえようとは思っていませんでした。それは大石の辞世の句にもよく現れています。『あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』見事です。爽快です。まさに『本懐』を遂げた人間の心は一点の曇りもないのでしょう。自分達の命を賭して、天下に正義を知らしめるのだと強い意思を貫きます。そして、お家再興を願い出て遂には悲願を果たします。吉良邸に討ち入った時、隣家の土屋主税(つちやちから)は、山鹿流の陣太鼓を聞き「大石、やっと来たか!」と全てを悟ります。午前4時という早朝にも拘らず、すぐさま、提灯を高く掲げ加勢するよう家臣に命じます。一度も会ったことがない赤穂浪士達の武士としての心に報いるべく、『あなた方の正義を応援します。存分に働いてください。』とばかりにすぐに行動にでます。現代のようにネットや携帯のない時代であっても、本物を見抜く力があれば、心は通じるのです。この見事な無言のうちの心のやり取りには、今の私達が失くしてしまった大切な精神を見る気がします。江戸の民衆は、この一大痛快劇に拍手喝采を贈り、主君の眠る泉岳寺までの沿道を埋め尽くします。この民衆の声が、将軍家をも動かすのです。やはり生命を濃く、精一杯生きた大石達の信じるものが『本物』だったからでしょう。 日に日に赤穂浪士への賞賛と助命嘆願の声は大きくなり、幕閣の中にまで支持する武士も現れてき始めます。日頃から、忠義を奨励していた将軍綱吉ら幕府の面々は『死罪か、助命か?』を迫られ対応に苦慮する事になります。その論議の波は、綱吉の心までも動かそうとしていました。しかし、それは浅野に対しての自分の判断が過ちだったという事を認めることにほかなりません。彼らの『天下に物申す!』が勝利したのです。天下の将軍に勝利したのです。学者の中でも議論が交わされます。林信篤は助命を、荻生徂徠は天下の法は曲げられないと主張して譲りません。困り果てた綱吉は、ついには皇族の意見を求めます。返ってきた答えは『亡き主君の意思を継ぎ、仇討ちを果たした忠義の心は天晴れである。しかし、この者達を助命すれば、生きていくうちに堕落してしまうかもしれない。そうすれば、この度の義士としての功績にさえ傷がつくであろう。今ここで死を与えれば、彼らのことは後世まで語り継がれるではないか。彼らの死には真の意味がある。』というものでした。これで彼らの運命が決まりました。そして彼らは静かにそれを受け入れます。命乞いなど毛頭考えていませんでした。「俺達は決して英雄などではない。ただ、主君のあだ討ち、それを果たしただけだ。」盛り上がる世論にも、浮き足立つ事無く、しっかりと地に足をつけていたのです。浪士の中には、前日に切腹の礼儀作法を教えられた者さえもいます。しかし、そのその死に様、いいえ、その人生の終い方はどんな高い身分の武士よりも立派だったそうです。誰一人取り乱すこともなく、茶席で次客にするように「それでは、お先に・・・。」と会釈して旅立ったそうです。 見事に切腹を果たした彼らの亡骸は、主君の眠る泉岳寺に葬られました。そこは、彼らに手向ける線香の煙と香りが絶えたことがありません。立ち上る香の煙が、行った事がない者にも道案内してくれるのです。胸を張って主君の下に旅立った彼らは、お預けになったそれぞれの大名家ごとに、行儀良く並んだ墓石の下に眠っています。外国の人でさえ、その心に感動せずにはいられないのでしょう。縦半分に割られた竹筒にのせられた一握りもある線香を、少しずつ四十七士に供えながら、青い目を閉じ静かに祈りを捧げています。この話に共感し、世界中からもたくさん訪れるそうです。海の向こうで頑張っている、新極真の仲間達にも教えてあげたいと思います。大仕事を終え、サラリとあの句を詠んだ男達に、また会いに行きたくなりました。 私は、忠臣蔵のころになると『新極真会』を立ち上げたことを思い起こします。そして、心を一つに仲間達と船出した2003年7月11日の自分達を重ねてしまいます。それは今一度、あの頃の気持ちを思い起こし、自分の今を振り返る糧になっています。今年を表す漢字は『新』だそうです。『新極真会』という名前には、自分達の信念を貫き、更に大きな新たな組織に生まれ変わって、このサムライ魂を伝えていこう!という気持ちがこめられているのです。 最後に私の一番好きな辞世の句を紹介いたします。 『身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』 吉田松陰
by miyoshi-dojo
| 2009-12-17 12:22
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